『 橋下市長に「価値観押しつけるな」 赤川次郎氏が朝日「声」欄で批判
「三毛猫ホームズシリーズ」などで知られる作家の赤川次郎氏(64)が、橋下徹大阪市長を批判した内容が、朝日新聞朝刊の「声」欄に載った。国歌斉唱時の教職員の「口元チェック」問題などを取り上げ、「自分の価値観を押し付けるのは、『力強い指導力』などとは全く別物である」などと厳しい言葉を連ねている。
口元チェック問題「何と醜悪な光景だろう!」 - 赤川次郎氏が橋下市長を批判する投稿が、朝日新聞「声」欄に載った。
朝日新聞の「声」欄は、主に一般読者の意見を紹介するコーナーだ。2012年4月12日付朝刊(東京本社版)の声欄に赤川氏の橋下氏評が載ると、ネットのツイッターでは、「朝日新聞の『声』に、作家の赤川次郎が投稿!」などと注目が集まった。赤川氏の意見を一部引用した上で「同感」とつぶやく人も少なくなかった。
見出しは、赤川氏でなく朝日新聞側がつけたとみられるが、「橋下氏、価値観押しつけるな」となっている。8人の意見が載る中、赤川氏のものは右ページの1番右上と比較的目立つ位置ではあるものの、特別扱いはされていない。1行約14字で36行の分量で、5段落に分かれている。
まず、大阪府立高校の卒業式で教職員らの「口元チェック」が行われた問題を取り上げている。橋下氏は、国歌斉唱時の起立斉唱を義務付けた条例を府と大阪市で成立させた。
赤川氏は、「生徒のためのものであるはずの卒業式で、管理職が教師の口元を監視する。何と醜悪な光景だろう!」と嘆いた。そして、橋下氏がかつて「独裁」の必要性に言及したことに触れ、「なるほど『密告の奨励』は独裁政治につきものである」と続けた。
橋下氏が主導する文楽協会への補助金削減問題でも、「客の数だけを比べるのはベートーヴェンとAKBを同列にするのと同じだ」として、「理解力不足を棚に上げ、自分の価値観を押し付けるのは、『力強い指導力』などとは全く別物である」と評している。
大阪本社版では載っていない
最後の段落では、橋下氏を指すであろう「過去に学ぶ謙虚さを持ち合わせない人間」に未来を託することは、地図もガイドもなしで初めて登山することと同じだとした上で、「一つ違うのは、遭難するとき、他のすべての人々を道連れにするということである」と結んでいる。
朝日新聞広報部によると、声欄に赤川氏の投稿が載るのは初めてで、「他の投稿と同様に」投稿されたものだと説明した。赤川氏は、2011年秋まで朝日新聞夕刊でコラム(三毛猫ホームズと芸術三昧!)を連載していた。この連載の中でも、大阪府知事時代の橋下氏に言及していた。
イタリア映画の名作、ヴィスコンティ監督の「山猫」について語った回(2011年9月2日)では、映画の登場人物と比較する形で、「ことに、石原都知事や橋下・大阪府知事が政治権力で教育に介入するのを見ていると、『歴史に学ぶ』謙虚さを持たない指導者がいかに薄っぺらな張り子の虎に見えることか」と書いた。
また、11年9月30日の「最終回」では、「どんなに政治やジャーナリズムに失望しても、石原慎太郎都知事や、橋下徹大阪府知事のような独裁者タイプの政治家に期待するのは最も避けるべき選択である」と指摘した。
4月12日夕現在、橋下氏は赤川氏への反論はしていないようだ。ツイッターは12日未明から更新しておらず、まったく触れていない。記者団に語ったという報道も見受けられない。
赤川氏の「声」は、12日の朝日新聞大阪本社版の声欄には載っていないようだ。大阪市内の複数の図書館に確認してみると、いずれも「載っていない」という答えだった。ツイッターでも「大阪では掲載まだ」といった声があった。
「声」欄は、エリア(各本社)ごとに地区の読者を優先する形で編集されている。赤川氏の住所は、「東京都港区」と掲載されていた。』
かつての小泉首相の登場の頃から米国のような劇場型政治が日本でも顕著になり,言わば民衆に受ける発言をする政治家の人気が上がるということなんだろうが,今の国政はあまりに大根役者ばかりで,その中では民衆受けがいい過激な発言をすればそれだけで注目を集めることが出来るから,テレビのように受ければ何でもありになっても不思議じゃないだろう.
国家をちゃんと斉唱しているか口元を監視するなんていう小学生並みの行動を高校の教職員の管理職が行うなんて言うのは,まさに国家による教育への悪しき介入でこれでは中国の思想教育のことを笑う事はできない.
私も娘の卒業式と入学式に出席してきたが,確かに国歌斉唱というのがあった.私も君が代を歌うのはあまりに久しぶりで一番の歌詞をようやく思い出しながら歌ったが,小学校では割と歌っている人が多かったのに中学校ではあまりちゃんと歌っている人はいなかった.
だが,考えてみると今この時代に何の疑問もなく国歌を全員できちんと斉唱しているというのは異様な光景のような気もする.北朝鮮ならともかくも日本は敗戦で民主主義国家になったはずなのに『君が代』というのはやっぱりどうも変な感じがするのは私だけだろうか.
『君が代』は元来,平安時代に詠まれた和歌でそれに明治維新後の1880年(明治13年)に曲がつけられ,以後は国歌として扱われるようになったそうであるから,国歌としての歴史としてはまだ一世紀ちょっとのようだ.
現在の政府の公式見解は,「『君が代』は、日本国民の総意に基づき天皇を日本国及び日本国民統合の象徴する我が国のこととなる.(君が代の歌詞を)我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解するのが適当』」とされているようだが,第二次大戦前の修身の教科書には「君が代の歌は、天皇陛下のお治めになる御代は千年も万年もつづいてお栄えになるように、という意味で、国民が心からお祝い申し上げる歌であります。」と記されていたそうである.
こうしてみると日本政府の見解は例によってご都合主義による曲解のようにも聞こえるし,歴史的にも現在の日本の国歌というには成り立ちの理由が釈然としない気がしないでもない.かといって他に適当な歴史を持った歌もないので,そのまま1999年(平成11年)に国旗及び国歌に関する法律で正式に国歌に制定されたのだろう.
しかるに,日本の歴史に比べてみれば非常に浅い歴史しかない国歌をなぜ政治主導で全員が斉唱しなければならないのだろうか.法律で決まったからというのではあまりにも拙劣なような気もしないでもないし,いつも歌っているうちに歌の意味を勘違いして,日本は今でも天皇制なのだと思う人が出て来てもおかしくないないだろう.それはすなわち洗脳である.テレビのCMとはそういうものだ.
思想,信条の自由というのは全ての法に優先する憲法で定められた自由であるはずである.今や,『君が代』は法律で定められた国歌であろうが,それを自分の国歌として受け入れて歌うかどうかは個人の自由だろう.だから,歌えない人がいても非難されることはないと思うが,教師は公務員なので知事や市長の業務命令に逆らってはいけないということなのだろう.
ただ,勘違いしてはいけないのは,自分の国を愛するということと政府が決めた国家を歌うということはまったく次元が違うということだ.かつて愛国心を利用して国民を戦争に駆り立てたどこかの国や歴史上の人物を思い出しつつ,自分もマインドコントロールされないように気をつけることこそが大切だろう.
「三毛猫ホームズシリーズ」などで知られる作家の赤川次郎氏(64)が、橋下徹大阪市長を批判した内容が、朝日新聞朝刊の「声」欄に載った。国歌斉唱時の教職員の「口元チェック」問題などを取り上げ、「自分の価値観を押し付けるのは、『力強い指導力』などとは全く別物である」などと厳しい言葉を連ねている。
口元チェック問題「何と醜悪な光景だろう!」 - 赤川次郎氏が橋下市長を批判する投稿が、朝日新聞「声」欄に載った。
朝日新聞の「声」欄は、主に一般読者の意見を紹介するコーナーだ。2012年4月12日付朝刊(東京本社版)の声欄に赤川氏の橋下氏評が載ると、ネットのツイッターでは、「朝日新聞の『声』に、作家の赤川次郎が投稿!」などと注目が集まった。赤川氏の意見を一部引用した上で「同感」とつぶやく人も少なくなかった。
見出しは、赤川氏でなく朝日新聞側がつけたとみられるが、「橋下氏、価値観押しつけるな」となっている。8人の意見が載る中、赤川氏のものは右ページの1番右上と比較的目立つ位置ではあるものの、特別扱いはされていない。1行約14字で36行の分量で、5段落に分かれている。
まず、大阪府立高校の卒業式で教職員らの「口元チェック」が行われた問題を取り上げている。橋下氏は、国歌斉唱時の起立斉唱を義務付けた条例を府と大阪市で成立させた。
赤川氏は、「生徒のためのものであるはずの卒業式で、管理職が教師の口元を監視する。何と醜悪な光景だろう!」と嘆いた。そして、橋下氏がかつて「独裁」の必要性に言及したことに触れ、「なるほど『密告の奨励』は独裁政治につきものである」と続けた。
橋下氏が主導する文楽協会への補助金削減問題でも、「客の数だけを比べるのはベートーヴェンとAKBを同列にするのと同じだ」として、「理解力不足を棚に上げ、自分の価値観を押し付けるのは、『力強い指導力』などとは全く別物である」と評している。
大阪本社版では載っていない
最後の段落では、橋下氏を指すであろう「過去に学ぶ謙虚さを持ち合わせない人間」に未来を託することは、地図もガイドもなしで初めて登山することと同じだとした上で、「一つ違うのは、遭難するとき、他のすべての人々を道連れにするということである」と結んでいる。
朝日新聞広報部によると、声欄に赤川氏の投稿が載るのは初めてで、「他の投稿と同様に」投稿されたものだと説明した。赤川氏は、2011年秋まで朝日新聞夕刊でコラム(三毛猫ホームズと芸術三昧!)を連載していた。この連載の中でも、大阪府知事時代の橋下氏に言及していた。
イタリア映画の名作、ヴィスコンティ監督の「山猫」について語った回(2011年9月2日)では、映画の登場人物と比較する形で、「ことに、石原都知事や橋下・大阪府知事が政治権力で教育に介入するのを見ていると、『歴史に学ぶ』謙虚さを持たない指導者がいかに薄っぺらな張り子の虎に見えることか」と書いた。
また、11年9月30日の「最終回」では、「どんなに政治やジャーナリズムに失望しても、石原慎太郎都知事や、橋下徹大阪府知事のような独裁者タイプの政治家に期待するのは最も避けるべき選択である」と指摘した。
4月12日夕現在、橋下氏は赤川氏への反論はしていないようだ。ツイッターは12日未明から更新しておらず、まったく触れていない。記者団に語ったという報道も見受けられない。
赤川氏の「声」は、12日の朝日新聞大阪本社版の声欄には載っていないようだ。大阪市内の複数の図書館に確認してみると、いずれも「載っていない」という答えだった。ツイッターでも「大阪では掲載まだ」といった声があった。
「声」欄は、エリア(各本社)ごとに地区の読者を優先する形で編集されている。赤川氏の住所は、「東京都港区」と掲載されていた。』
かつての小泉首相の登場の頃から米国のような劇場型政治が日本でも顕著になり,言わば民衆に受ける発言をする政治家の人気が上がるということなんだろうが,今の国政はあまりに大根役者ばかりで,その中では民衆受けがいい過激な発言をすればそれだけで注目を集めることが出来るから,テレビのように受ければ何でもありになっても不思議じゃないだろう.
国家をちゃんと斉唱しているか口元を監視するなんていう小学生並みの行動を高校の教職員の管理職が行うなんて言うのは,まさに国家による教育への悪しき介入でこれでは中国の思想教育のことを笑う事はできない.
私も娘の卒業式と入学式に出席してきたが,確かに国歌斉唱というのがあった.私も君が代を歌うのはあまりに久しぶりで一番の歌詞をようやく思い出しながら歌ったが,小学校では割と歌っている人が多かったのに中学校ではあまりちゃんと歌っている人はいなかった.
だが,考えてみると今この時代に何の疑問もなく国歌を全員できちんと斉唱しているというのは異様な光景のような気もする.北朝鮮ならともかくも日本は敗戦で民主主義国家になったはずなのに『君が代』というのはやっぱりどうも変な感じがするのは私だけだろうか.
『君が代』は元来,平安時代に詠まれた和歌でそれに明治維新後の1880年(明治13年)に曲がつけられ,以後は国歌として扱われるようになったそうであるから,国歌としての歴史としてはまだ一世紀ちょっとのようだ.
現在の政府の公式見解は,「『君が代』は、日本国民の総意に基づき天皇を日本国及び日本国民統合の象徴する我が国のこととなる.(君が代の歌詞を)我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解するのが適当』」とされているようだが,第二次大戦前の修身の教科書には「君が代の歌は、天皇陛下のお治めになる御代は千年も万年もつづいてお栄えになるように、という意味で、国民が心からお祝い申し上げる歌であります。」と記されていたそうである.
こうしてみると日本政府の見解は例によってご都合主義による曲解のようにも聞こえるし,歴史的にも現在の日本の国歌というには成り立ちの理由が釈然としない気がしないでもない.かといって他に適当な歴史を持った歌もないので,そのまま1999年(平成11年)に国旗及び国歌に関する法律で正式に国歌に制定されたのだろう.
しかるに,日本の歴史に比べてみれば非常に浅い歴史しかない国歌をなぜ政治主導で全員が斉唱しなければならないのだろうか.法律で決まったからというのではあまりにも拙劣なような気もしないでもないし,いつも歌っているうちに歌の意味を勘違いして,日本は今でも天皇制なのだと思う人が出て来てもおかしくないないだろう.それはすなわち洗脳である.テレビのCMとはそういうものだ.
思想,信条の自由というのは全ての法に優先する憲法で定められた自由であるはずである.今や,『君が代』は法律で定められた国歌であろうが,それを自分の国歌として受け入れて歌うかどうかは個人の自由だろう.だから,歌えない人がいても非難されることはないと思うが,教師は公務員なので知事や市長の業務命令に逆らってはいけないということなのだろう.
ただ,勘違いしてはいけないのは,自分の国を愛するということと政府が決めた国家を歌うということはまったく次元が違うということだ.かつて愛国心を利用して国民を戦争に駆り立てたどこかの国や歴史上の人物を思い出しつつ,自分もマインドコントロールされないように気をつけることこそが大切だろう.
コメント
これ以上ないぐらい筋の通った批判など同意できるものも多いのですが、
私もこの、『君が代』関連にだけは賛成できません。
反対されている教職員の方々の多くは、戦争へと駆り立てる洗脳教育に使われた
旨の『君が代』が持つ歴史的背景から、抵抗感を持っていらっしゃるのだと
認識しています。
公務員なのだから、命令に従えないのなら辞めればいいだけだ、という、
橋本氏らしい「筋の通った」言い分のようにも思えますが、
原爆死没者慰霊碑の碑文、
「過ちは繰返しませぬから」
の誓いを出すまでもなく、
「過去」について橋本氏がどう考えているのか、
そもそも『君が代』をどう捉えているのか、そこの説明がないと、
いつまでたっても平行線を辿るばかりだと思うのは私だけなのでしょうか。
ブログ脳外科医さんが書いておられるとおり、市民、国民一人ひとりが
自分の頭でしっかり考えて、右へ倣えのようにマインドコントロールされないよう
気をつけることこそが大切だと私も思います・・・!