『 -- <ゲド戦記>挿入歌の歌詞が朔太郎の詩と酷似 --
ヒット中のアニメ映画「ゲド戦記」の挿入歌「テルーの唄(うた)」の歌詞が萩原朔太郎(1886〜1942)の詩「こころ」と酷似している――。現代詩作家の荒川洋治さん(57)が月刊誌「諸君!」11月号で告発し、波紋を広げている。
「テルーの唄」は「ゲド戦記」監督の宮崎吾朗さん(39)の作詞。一方、萩原朔太郎は大正・昭和期を代表する詩人。詩集「月に吠える」や「青猫」で知られ、「こころ」は25年刊行の「純情小曲集」に収められた。
両者の類似部分を荒川さんは列挙する(こころ、テルーの唄の順)。「こころをばなににたとへん」/「心を何にたとえよう」▽「音なき音のあゆむひびきに」/「音も途絶えた風の中」▽「たえて物言ふことなければ」/「絶えて物言うこともなく」――など。
荒川さんは「道行くふたりという人物設定、状況、空気、語調は、たいへんにている。構成もにている」と指摘する。
荒川さんは、宮崎さんがインタビューで朔太郎の詩を参考にしたことを明らかにしていることや、「ゲド戦記」の公式サイトでも「こころ」を「参考資料」として掲げていることを認めた上で、「問題がある」と批判。「『作詞・宮崎吾朗』とすることに、少しのためらいも感じなかったのだろうか。ここは『原詩・萩原朔太郎 編詞・宮崎吾朗』とでもするべきではないか」と主張する。
荒川さんの主張に対し、映画を製作したスタジオジブリは「一切ノーコメント」としている。
著作権問題に詳しい日本文芸家協会副理事長、三田誠広さんの話 表現を微妙に変えていて、「こころ」の盗作とは言い難い。しかし、朔太郎の詩がなければこの歌詞が書けないことは明らか。モラルの問題として、朔太郎への感謝の言葉を入れるべきだ。ネットなどには出ているというが、シングルCDの購入者には分からない。先行する芸術への尊敬の気持ちが欠けている。』
「ゲド戦記」の予告編を映画館で見た時に,アニメの雰囲気は「もののけ姫」みたいだなと思い,なんとなくどこかで見た事があるような感じがするのはそのせいだと思っていたが,歌にもオリジナリティーが無かったということだったわけだ.
見るほうは楽しければそれでいいという人がほとんどだろうが,創る人がこれでは芸術にならない.「トトロ」の時に宮崎駿さんの人と自然の関わり合いの話を聞いて感心したのだが,宮崎吾朗さんにはアーチストの心というものが少ないのだろうか.
なんとなく観たいという気が起きなくて,その後は気にしていなかったのだけれど,「風の谷のナウシカ」なら熱心に何度も繰り返し観ていた娘が映画館に観に行きたいとも言わなかったのも,子供ながらに何かを感じたからなのかもしれないと思いました.
ヒット中のアニメ映画「ゲド戦記」の挿入歌「テルーの唄(うた)」の歌詞が萩原朔太郎(1886〜1942)の詩「こころ」と酷似している――。現代詩作家の荒川洋治さん(57)が月刊誌「諸君!」11月号で告発し、波紋を広げている。
「テルーの唄」は「ゲド戦記」監督の宮崎吾朗さん(39)の作詞。一方、萩原朔太郎は大正・昭和期を代表する詩人。詩集「月に吠える」や「青猫」で知られ、「こころ」は25年刊行の「純情小曲集」に収められた。
両者の類似部分を荒川さんは列挙する(こころ、テルーの唄の順)。「こころをばなににたとへん」/「心を何にたとえよう」▽「音なき音のあゆむひびきに」/「音も途絶えた風の中」▽「たえて物言ふことなければ」/「絶えて物言うこともなく」――など。
荒川さんは「道行くふたりという人物設定、状況、空気、語調は、たいへんにている。構成もにている」と指摘する。
荒川さんは、宮崎さんがインタビューで朔太郎の詩を参考にしたことを明らかにしていることや、「ゲド戦記」の公式サイトでも「こころ」を「参考資料」として掲げていることを認めた上で、「問題がある」と批判。「『作詞・宮崎吾朗』とすることに、少しのためらいも感じなかったのだろうか。ここは『原詩・萩原朔太郎 編詞・宮崎吾朗』とでもするべきではないか」と主張する。
荒川さんの主張に対し、映画を製作したスタジオジブリは「一切ノーコメント」としている。
著作権問題に詳しい日本文芸家協会副理事長、三田誠広さんの話 表現を微妙に変えていて、「こころ」の盗作とは言い難い。しかし、朔太郎の詩がなければこの歌詞が書けないことは明らか。モラルの問題として、朔太郎への感謝の言葉を入れるべきだ。ネットなどには出ているというが、シングルCDの購入者には分からない。先行する芸術への尊敬の気持ちが欠けている。』
「ゲド戦記」の予告編を映画館で見た時に,アニメの雰囲気は「もののけ姫」みたいだなと思い,なんとなくどこかで見た事があるような感じがするのはそのせいだと思っていたが,歌にもオリジナリティーが無かったということだったわけだ.
見るほうは楽しければそれでいいという人がほとんどだろうが,創る人がこれでは芸術にならない.「トトロ」の時に宮崎駿さんの人と自然の関わり合いの話を聞いて感心したのだが,宮崎吾朗さんにはアーチストの心というものが少ないのだろうか.
なんとなく観たいという気が起きなくて,その後は気にしていなかったのだけれど,「風の谷のナウシカ」なら熱心に何度も繰り返し観ていた娘が映画館に観に行きたいとも言わなかったのも,子供ながらに何かを感じたからなのかもしれないと思いました.
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