『--「過去に例ない」同志社大が陳謝 京都女児殺害--

 「大学130年の歴史として過去に例がない事件。一人一人を大切にしてきた同志社として大変重く受け止めており、慚愧(ざんき)の念に堪えない」

 京都の小6女児殺害事件で、10日夕、同志社大で会見した八田英二学長は沈痛な表情で陳謝した。

 03年6月の事件後、萩野容疑者が所属する法学部教授会は「反省しており、警備員のけがも軽傷だった。再び教育の機会を与えるべきだ」と退学処分は見送り、10月1日付で1年半の停学処分とした。

 ところが停学中、大学側が萩野容疑者と接触したのは、停学が解ける直前の05年3月25日、学生主任の法学部教授2人が萩野容疑者と父親に20分間面会した一度きりだった。「反省の態度を示し、今後の勉学への意欲もあり、特に異常な様子はなかった」(佐藤鉄男法学部長)として復学を認めていた。

 佐藤部長は「個人的には今思うと、本人の心の相談をすることがあってもよかった」と語った。 』

 最高学府たる大学も今では誰でもといっていいくらい入学できるようになった.それだけ大学の価値も下がっている.さらに少子化で学生集めに躍起になっている私立大学も多い.東大が地方の優秀な学生を集めるために地方で入学試験を受けられるようにするというニュースも聞いた.今や強盗致傷でも学生を退学にしたくないということなのだろうか.

 「反省しており、警備員のけがも軽傷だった。再び教育の機会を与えるべきだ」という話を好意的にとれないでもないが,反省しているという判断がどのようになされたかに現実的な問題があるのではないだろうか.泣いて誤ったから反省していると判断したという程度だったとしたら学問ばかりやっている大学の先生方は世の中のことがわかっていないといわれても仕方がないだろう.中途半端な理解や同情など何の役にも立たないのである.悪い意味での加害者への偏重が生んだ悲劇とも言えるだろう.

 そう,現代の人間の心とか価値観というものはこれほどまでに多様化し病んでいるということにもっと早く気付くべきであっただろう.私は医師という職業のため好むと好まざるにかかわらず実に色々な人間をみてきたが,最近の患者や家族のものの考え方には驚かされることが多い.そこではもはや私の常識や良識というものは通じない.ただ自分の幸福のみを追求する姿を恥ずかしげもなく晒す人々が思いのほか多いのにはあきれるばかりである.

 その人のために良かれと思って配慮してあげたつもりが『恩を仇で返す』ような目に遭って後悔するような経験を何度かすれば人間というものがいくらかはわかるだろう.同志社大学の先生達は130年の歴史で初めてこのようなことに遭って驚きと同時に落胆を経験したに違いない.だが,臨床医であれば年に数回は信じられないような人たちを経験し,このような人間がいることは驚くにはあたらないと思う.

 外から見てわからない以上,他人を信頼するかどうするかはその人が何を言ったかでなく何をやってきたかで判断するしかないと思うのだがどうだろうか.

コメント

nophoto
素町人@思案橋
2005年12月12日14:00

 突然で恐縮ですがご招待です
 「京都女児殺害」にちなんだクイズを作りました。
 お近くへおいでの節は、どうぞ拙宅へもお立ち寄り下さい
→http://blog.q-q.jp/200512/article_56.html
(ご迷惑でしたら、お手数ですがコメント、TBの削除をお願いします)

nophoto
k
2005年12月12日14:14

初めまして、blogいつも見てます、これからよろしくお願いします☆http://k2k.air-nifty.com/

nophoto
一読者
2005年12月23日0:28

通りすがりのものですが、日記の内容に少し気になる点があったので書き込みいたします。日記中、「現代の人間の心とか価値観というものはこれほどまでに多様化し病んでいる」とありますが、ここでは「多様化」と「病んでいる」ことが同じ意味で並べられているのですか?もしそうだとすると、私は、価値観の「多様化」と「病ん」だ価値観とは、二つの異なるものだと思うのですが。そして、「私は医師という職業のため好むと好まざるにかかわらず実に色々な人間をみてきたが,・・そこではもはや私の常識や良識というものは通じない.」とあります。これではまるで、「私の常識や良識」が健全であることに一点の曇りもないとおっしゃっているかのようです。ここでは、「中途半端な理解や同情など何の役にも立たない」のだから斬って捨てるという論理が貫かれているように思いますが、大学側というか、大学の教員のあいだには「見捨てるべきではない」という声もあったのではないでしょうか。(断言はできませんが。)自分の意に染まない相手を殺してしまうということが「多様な価値」のひとつとして認められるとは思いませんが、そういう事件を起こしてしまった人を単に、斬って捨てるというわけにもいかないように私は思います。裁かれるべき犯罪も、社会の一部です。犯罪や犯罪者を日のあたる場所から追い出してしまえばそれで終わり、ではないと思います。そういう犯罪がなぜ起きてしまったのか、なぜ防げなかったのかという問題に取り組んでいくことが、長い眼で見て、真に必要なことではないでしょうか。

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