公序良俗

2005年5月24日 医療の問題
『--代理出産の母子関係認めず 大阪高裁が抗告棄却--

 米国で代理出産によって生まれた子の出生届を自治体が受理しなかったのを不服として、関西在住の50代の夫婦が処分の取り消しを求めた家事審判の抗告審で、大阪高裁(田中壮太裁判長)は、「母子関係は認められない」として夫婦の申し立てを却下した家庭裁判所の判断を支持し、2人の抗告を棄却した。夫婦は「子どもを持ち、幸福を追求する権利が侵害された」として24日にも最高裁に特別抗告する方針。

 大阪高裁の20日の決定によると、夫婦は子どもができなかったため、米国カリフォルニア州で米国人女性から卵子の提供を受け、夫の精子と体外受精させた。さらに別の米国人女性の体内に着床させる方法で、02年に子をもうけた。

 田中裁判長は「法律上の母子関係を、分娩(ぶんべん)した者と子との間に認めるべきだとする基準は今なお相当だ」として家裁決定を支持。医療の発展があっても「例外を認めるべきではない」とした。

 さらに代理出産について「人をもっぱら生殖の手段として扱い、第三者に懐胎、分娩による危険を負わせるもので、人道上問題がある」と指摘。子を産んだ女性との間で子を巡る争いが生じる恐れもあり、「契約は公序良俗に反して無効とするのが相当」と判断した。』

 生みの親より育ての親という言葉もあった。だが、たとえ契約だったとしても子を産んだ女性を実母というのが当然であろう。妊娠や出産という胎児との経験の共有こそが生みの親であることの意味でありそれこそが実母というもので、遺伝子がどうこうということは親子の人間関係で重要視すべきことではないだろう。

 この夫婦のいう「子どもを持ち、幸福を追求する権利が侵害された」というのはまったく見当違いである。なぜなら養子縁組という方法で代理出産させた子供を法的に自分たちの子供とする自由があるからである。また、たとえ契約した代理母にそれを拒まれたとしてもそれはそれで仕方のないことであろう。自分がお腹を痛めて生んだ子供の遺伝子が自分のものではなくても愛着が沸くのもまた人間であるからである。

 そもそも自分たちの幸福を追求するために他人の体を危険にさらしていいわけがあるだろうか。私は医師として人間の生と死だけはお金や社会的地位とは関係なく平等にあるべきだと思っている。どんな理由があるにせよお金で子供を手に入れるという行為は人身売買につながる考え方であり危険であると思うのだがどうだろうか。

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