そのむかし一休禅師(大人になった一休)は正月に京の町を竹竿に髑髏(どくろ)をくくりつけて歩いたという.

今年は不景気と戦争で正月気分も盛り上がらないがこの時とばかり沢山の初詣の人がくりだしたようだ.まさに神だのみというところか.

人間はいつも死と隣り合わせであるが,これを日頃から自覚できる人は真に悟った人かもしくは自殺願望を持った変人かというくらい稀だろう.

医学会ではつい最近までは死といえば心臓死のことを指していて法的にもそうであったが,ここ数年で死体からの臓器移植のために便利な脳死という概念が死の定義として認知されるようになった.

もっとも実際の臨床では臓器移植の場合や救急部ではやくベッドを空けたい場合以外にわざわざ煩雑な脳死判定をやる必然性はないと思われるので心臓死をもってご臨終を告げるのがほとんどだろうと思われる.

脳死状態の人はどんなに生命維持のための処置をしようとも確実にほぼ1週間以内には心臓死するから死の定義としても差し支えないのである.

だが,私はあえて一歩踏み込んで考えてみたい.人の死をどのレベルで考えるのが本当はよいのかということを.

死へのステップを逆から考えてみよう.
1.全身のすべての細胞が非可逆的に機能を停止した状態.
2.すべての臓器が非可逆的に機能を停止した状態.
3.自律神経が非可逆的に機能を停止した状態.
4.中枢神経が非可逆的に機能を停止した状態.
5.意識が非可逆的に消失した状態.

これでなるほどと思われては困る.実は人間は中枢神経の一部が機能していれば意識がなくても心臓死には至らないからである.

遷延性意識障害というのはそういう状態である.だが,人間らしいコミュニケーションはなにひとつできない.生物学的には確かに生きているが,姿以外に人間らしいところはない.

これを生きている人と呼ぶのがいいのかどうかわからない.

将来,脳を他人の体に移植できるようになったらこれらの人間は死んでいることにされるのであろうか.

意識もなく寝たきりの家族をかかえる人たちはどう考えるのであろうか.

脳死臓器移植について考えるときにこういったことも一般社会の人たちに考えてもらいたいものである.

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